「エヴァンゲリオン」についてです。長いよ。
2021年 3月 8日。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が公開になりました。
公開は当初の発表よりも大幅に遅れ、さらには新型コロナウィルス感染症による延期も相まって、多くのファンが首を長くして待っていた作品です。
「エヴァンゲリオン」というコンテンツ、TV版・漫画版等のシリーズの概要についての解説はここでは割愛します。この記事において主に伝えたいことは
- エヴァがついに完結した
- エヴァは何を伝えたかったのか
- エヴァを通して僕たちが感じたこと
これらを軸にお話を進めたいと思います。
本記事は、いわゆる「考察記事」とは一線を画します。
世界観や作品中の小さな事象を積み上げてロジックを解いていくような緻密な考察も大好きですが、アジにはできそうもありません。上手な人のサイトをご覧ください。
また、本記事は「最新作のネタバレを含みます」。
劇場版最新作の結末を以って「エヴァの完結」と位置づけ、完結に至るまでの道筋を考察する記事となります。
Contents
「エヴァンゲリオン」という大きすぎるコンテンツ
「鬼滅の刃」、「ワンピース」、「ドラゴンボール」…。
世には有名な作品、モンスターのごとき巨大コンテンツって結構あります。
私自身、エヴァンゲリオンもそれらの一つと肩を並べるほどの巨大コンテンツだと思っています。
そのモンスターコンテンツの中でも、エヴァンゲリオンってなかなかに異色な存在です。
はっきりと言うと
「オタクくせぇ」んです。全てにおいて。
- 「綾波レイ」「惣流(式波)・アスカ・ラングレー」という2大ヒロイン
- 戦うロボット(ただのロボットじゃないんだよ的観点も含む)
- 小難しい横文字の羅列
- 「セカイ系」と言われるにふさわしい世界観
これらはすべて「オタク向けアニメ」の根幹をなすものです。
言い方は悪いですが、実際そうなんです。好かれるべくしてオタクに好かれ、オタク文化に溶け込んだ作品なんです。
少々脱線しましたが、こうして列挙して、「あれ?」と思いませんか?
これからこれらの要素について少しづつひも解いていきますが、皆さん感じている通り
「影響与えすぎ」な作品なんです。
筆者アジは、日本のアニメ歴史や時系列にそこまで明るい人間ではありません。それでも、エヴァンゲリオンが後世に与えた影響はかなりあると考えています。
エヴァンゲリオンというコンテンツの知名度
エヴァンゲリオンというコンテンツの知名度は、とんでもないです。
老若男女、エヴァを知っています。エヴァを知らないおじいちゃんでも、主題歌は知ってたりします。
コレなんです。大多数のおじさま、おばさまはコレ。
「パチンコ」。エヴァといったら「パチンコ」。
あまり言いたくない表現ですが、パチンコがエヴァに市民権を与えたといっても過言ではありません。
いい意味でも悪い意味でも、です。でも、知名度が無いことには、どれだけ素晴らしい作品でどれだけ信者がいようとも、コンテンツが大きくなることは難しいです。
エヴァにとってパチンコとのタイアップは、必要だったんだろう…とも思います。
「綾波」、「アスカ」という強すぎるヒロイン
「綾波派?アスカ派?」
エヴァ男子なら絶対に10回は聞かれている質問です。
エヴァ女子でも、ですね。
「無口でミステリアスな綾波」、はたまた「ツン8:デレ2なアスカ」。
この2人の好みについて、迷うことはきっとないんです。なかったんです。
「甲乙つけがたい」という状態にあまりならないんです。完全にその人の好みが表れる二人だと思っています。
それほどまでに完成された二人だったと思います。後世に与えた影響は計り知れません。
「綾波か、アスカか」。
この選択は、エヴァを語る上で避けられません。
あなたはどちらが好きですか?どんな理由で好きですか?そして、エヴァというコンテンツが誕生してから20年以上が経過し、当時の自分と今の自分を比較して、何を感じますか。少し読むのを休んで、考えてみてください。
なにか発見があるかもしれません。
エヴァというコンテンツと「パチンコ」
先述のとおり、「エヴァ」と「パチンコ」は切っても切れない縁にあります。
どれだけエヴァが好きでアンチパチンコな人間が吠えようとも、この事実は変わりません。
「パチンコというギャンブルによって、崇高なエヴァが低俗な人間の消費物とされた。」このように感じた人が、私の周りにもいました。それからエヴァのアンチになったりして。どういうこっちゃ、と思いましたが。
筆者アジも、パチンコやってましたし、エヴァ好きでしたので、初代から打ってます。今はほとんどやらなくなりましたし、最新作が出ても触れることはありません。
パチンコ打ちの視点を知らない方も多いと思いますので、「エヴァ好き」と「パチンコ詳しい」のハイブリッド、アジが少し掘り下げて解説します。
簡単に説明します。なんなら端的に、です。
- シンプルすぎた演出が逆に受けた。
- キャッチーな主題歌。
- 当時流行した「突確」が「初号機暴走」にドンピシャ。
- 「活動限界の警報」が「ミッション演出」にドンピシャ。
この4つです。たったそれだけで覇権。今日までの「パチンコ・パチスロ業界におけるエヴァンゲリオンシリーズの地位を築いた」と言っても過言ではありません。
パチンコ打つ人なら、この羅列だけで分かりますね。打ったことない人、年齢が若くて昔の台を知らない人のために解説します。興味なかったら飛ばしてね。
パチンコのエヴァは、「今は違いますが(ここ重要)、シンプル」だったんです。画面上でうるさく演出が起こらなくても、TV版の「予告」がいきなり流れるだけでもう当たりそう。みたいな「いきなり来るアツい瞬間」が楽しめたんです。
さらに、当たれば流れる「残酷な天使のテーゼ」。エヴァを知らないパチンカーのオジサマオバサマはここで初めてあの名曲と出会うわけです。流れる画面もアニメ版のあのカッコいいヤツ。そりゃ痺れる。なんなら、当たってるわけだし。
あと、当時流行った「突確(突然確変)」という出玉のない大当たり。その後は大当たり確率が当たるまで跳ね上がる状態になります。そのモードに入るときに、初号機が暴走する演出が入るわけですね、「ウォォォォォォオン」って。そこにまたみんなが痺れた。
おまけで、TV版ではおなじみの「赤黒の警報」演出。「ビーッ、ビーッ!」ってやつです。それが急に発生して、ミッションが始まる。おなじみのマヤちゃんの声(アンビリカルケーブル断線!!活動限界まで~・・・!!!)とともに。
「5分以内に○○しろ!(したら当たり)」みたいな。そもそも、当たらなければその指定された演出は出ないので、単なる煽りなんですが、「時間制限」という新しい要素に打ち手は燃えたと思われます。
長くなりましたが、エヴァのアニメ演出とパチンコがドンピシャに合致し、流行ったわけです。さらに、もともとエヴァが好きな人たちもこぞって打ったため、大ヒット機種となりました。
パチスロも同じく、シンプルかつアツい、法則性を持って楽しめる、などといった要素が絡み合い、爆発的ヒットで多くのファンを作りました。
結果としてエヴァというコンテンツが世の中での認知度を大きく上げることとなったのです。
ボクとワタシとエヴァンゲリオン
この章では、完全なる自分語りをします。
このようなブログ記事における「自分語り」。本来は絶対なる禁忌(タブー)です。しかしながら、あえて私がエヴァに触れたときから今までの人生を振り返ることで、私も、読者のあなたも、何か得られることがあると確信しています。
ここを読んでもらえれば、この後の章の説得力がかなり違います。
エヴァンゲリオンという作品がこの世に生まれたとき、僕は小学生だった。
あなたは何歳だっただろうか?僕と同じくらいかもしれないし、20歳くらいのお兄さんだったかもしれない。だとしたら、僕とあなたは10歳くらい離れているのかな。
現実世間はかなり鬱屈としていた。僕も小学生なりにそれを感じていたし、大学生のあなたたちは殊更強く感じていたと思う。
僕は、不思議な世界観と、かっこいい人造人間が戦うエヴァンゲリオンが好きだった。子供だから、「人類補完計画」とか「ゼーレ」とかよくわからなかったし、24話と25話、最終話はわけがわからなかった。でもよくわからない言葉の羅列を「かっこいい」と思った。
僕よりも少し大人な人たちはわかっていたんだろうか。意味深なのか意味不なのかわからない終わり方を見せたアニメシリーズ。
僕は綾波が好きだった。アスカは苦手だった。
綾波100:アスカ0で確定。アスカが好きな人の気持ちなんて理解できなかった。わがままで勝気なくせに、いざとなると役に立たない。だったら、ミステリアスだけど理解を示してくれる綾波のほうが、ずっとよかった。ビジュアルも好きだったし。
マンガ版も読んだ。発行はかなり遅れがちだったけど、貞本さんの絵柄が好きだった。
劇場版の「Air・まごころを君に」を観た。完膚なきまでに叩きのめされた。別に僕は「例の実写」のような人間ではないけれど、あのストーリーを消化するには、少々キツかった。今みたいに考察が簡単に見れる時代でもない。自分で消化するしかなかった。
「劇場版」で叩きのめされたのが納得いかなくて、PSP版のUMDを買った。何度も何度も見たけど、自分の中での答えは見つからなかった。
結局、消化不良だった。
「甘き死よ、来たれ」を聴くだけでメンタルが削られるような作品だった。
気が付いたら高校も卒業して、大学なんて進学しちゃうような歳になっていた。エヴァは好きだけど、別に生活に割り込んでくるような存在じゃない。マンガが出ないのも知ってるし、結末なんて気にすることもなかった。
でも何となくエヴァは好きだから、ライターは「生命の樹」が描かれたジッポーだったし、たまにするパチンコでも「残酷な天使のテーゼ」が聴きたかった。
・・・・・・・・・。
新劇場版って、なんすか?
「序」を観に行った。当時好きだった彼女と。その子は、僕が小学生でエヴァにハマってた時期に好きだった同級生だった。無口で美人な子だった。きっと僕の綾波好きは彼女から来ていると思った。
「破」が出たころには、違う彼女と出会っていた。なんとなく、「破」をこの子と観るのは違う気がして、DVDを買って一人で観た。
「Q」が出たころ、僕は結婚していて、妻のお腹には子供がいた。「Q」はテレビで観た。子供も小さいし、ゆっくり見ることもできなくて、没入できなかった。
エヴァンゲリオンなんて、もはや「パチンコの有名コンテンツ」でしかなくなっていた。自分からエヴァを観ることも求めることも、エヴァの世界観に触れることすらなく時間が過ぎていった。
そして、「:||」が、公開された。
「破」を一緒に観に行かなかった妻が言った。妻はあまりエヴァに詳しくはない。
乗り気ではなかったけど、観た。観る前に、昔では考えられないほどに醸成されたエヴァの考察記事を観たりして、時間を忘れるほど見入ってしまった。
僕はやっぱりエヴァが好きなんだなぁ。実感した。
妻と一緒に「破」と「Q」を観た。多くは語らず、聞かれたことだけに答えた。それでも、自分の中で納得のいく答えは見つからない。
妻が言ってくれて、勇気が出た。
なぜ「エヴァ最新作」を見に行く勇気が出なかったのかは、なんとなくわかっていた。
「シン・エヴァンゲリオン:||」とは
タイトルからして
「やってくれたな。」って感じました。
楽譜読める芸人のアジとしては
なんて軽く考えていたら痛い目に合うのがエヴァの常識。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」
ときての
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」
繰り返しますが、アジは考察が得意ではありません。タイトルに関する考察は、いずれ上手な人がしてくれることでしょう。
でも感じることはあります。
タイトルだけ見たら、まぁ「リピート記号」に思える。
でも、以前のタイトルすべてに「:」が付いてる。
「:」を抜いたら「終わり」の意味に変わる。(音楽記号的に)
アジ的考察。
「:||」の記号を見たら、楽譜読める人はすぐに「リピートや!」と気づきます。それを逆手にとっての「||(終わり)」なのではないかと。終わりなんだけど、「:」も含めた見方によっては最初に戻るよ。みたいな。
エヴァ作品を終わらせないでいてくれる、庵野監督の優しさなのかと考えます。
「庵野監督の優しさが見える」というのがアジ的キーポイントです。今後も出てきます。
妻が気づかせてくれた「エヴァ」
観ました、観てきました。
率直な感想。一言です。
「卒業させてくれてありがとうございます。」
本当に、終わりました。
きっとこの記事には、ネタバレしたくない人は見てないだろうし。
なにかしら自分の中での着地点を見つけたい人や、答え合わせをしたい人が見ていると考えています。
私は声を大にしてい言いたい。
「この気持ちを共有したいです。」と。
どんな気持ちか、を説明するので聞いてね。
アジの中でのエヴァとは「崇高なもの」であり「難解なもの」であり「人間の本質・根幹にかかわるもの」くらいのイメージだったんです。
だから、映画を観る時も、「被写体よりも背景」、「知りうる考察を駆使しての世界観の把握」を主眼として鑑賞していたのです。
その結果
ラスト30分くらいで迷子になる
という事象に遭遇します。
迷子になるから、その後の展開が頭に入らない。頭に入らないから世界に入り込めない。置き去りにされる。ラストはポカーン。
観終わった後妻に言われました、その言葉が衝撃だったので載せます。
「意味わからん言葉多かったけど、スッキリ終われてよかった。」
ですって。
は?何がスッキリ!?などと思いましたが、妻の話を聞いて、私は目が覚めました。
「結局、横文字やら宗教用語で難しくしてるだけで。そこに意識を置かずにドラマとしてみれば、どストレートな人間劇だよ。」と。
思い知りました。
アジは今まで、「目の前で起きている事象の理解」、「小難しい単語同士の意味」、「エヴァ世界における行為の宗教的意味合い」、「世界観の理解」にばかり固執して
エヴァのストーリーの大筋を完全に無視していました。
すぐにもう一度チケットを買い、鑑賞しました。
まっさらな気持ちで、登場人物の気持ちに寄り添って鑑賞しました。
ストーリーがすんなり心に入ってきて、観終わった後は、1回目とは違うすがすがしさがありました。
まとめ①:これがエヴァの「完成形」なの?
妻に核心(コア)を突かれ、私は「エヴァの設定」や「世界観」にハマりすぎていることに気づきました。
言葉の意味や世界観なんて、私たちファンが難しく考察しすぎた結果、今のように難解になってしまった可能性すらあります。
作者である庵野監督だって、オタクたちをターゲットに「このストーリーを理解できるかな~?」なんて気持ちでエヴァを作ったとは思えませんし。
人間の本質を考えつつ、独自の世界観にキリスト教的な宗教感をエッセンスとして加えた結果が、俗に言う「サブカル的な」文化やアニメ業界とマッチして、「エヴァンゲリオン」という作品が独り歩きしていったのかもしれません。
さらに、「綾波」「アスカ」という2大ヒロインは、後世の作品にも大きく影響を与えたことにより存在感が普遍的なものになってしまったと思います。(後述)
まとめ②:アジが考える今作のラストの意味は
アジが今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」について考えるキーワードはいくつかあります。
「解放」
「卒業」
「愛、救済」
というところでしょうか。
エヴァからの「解放」
これは、登場人物に対して、です。
非常に強く感じました。
先述のエピソードで、エヴァに出会った筆者、アジの自分語りをしました。当時私は小学生です。それが今や、いいお姉さん代表のミサトさんの歳を余裕で超えています。
その間も、シンジ・レイ・アスカ、みんなは14歳の少年少女のままです。消費され続けるエヴァというコンテンツにおいて、彼らは常に14歳のままです。
「エヴァの呪縛」とアスカが「新劇場版:Q」で語っていました。それは作品内のことに留まらず、実際の彼女たちの状態を表していたのではないでしょうか。
私が20数年の時を経て、作品が更新されるまでに歳を重ねて様々な経験をしても、エヴァンゲリオンの彼らは変わらなかった。何度も消費され、繰り返し傷つき、弱い部分を何度も見られ続けてきた。
そんな登場人物が、今作でやっと解放されました。歳をとることを許され、大人になることを許され、「チルドレン」であることから解放されました。
正直、何とも言えない寂しさはあるラストでした。でも、人生ってきっとそういうものなんですよね。自分都合の尺度で他人の生き方を固めていいものではない、ということでしょう。
エヴァからの「卒業」
何度も言っている通り、エヴァには不思議な魅力があり、それこそが沢山の人を惹き付けてきました。
旧劇場版の考察を観るのが大好きなアジとしては、その気持ちは大いにわかります。
そこで感じるのが、「庵野監督の思い」です。
アニメ版の終わり方。小学生当時の私としては理解困難でした。
でも今になって思えば、
「シンジ君が人間的に成長できたね、おめでとう」で終わりなんです。
そこに、先ほど言った「宗教的エッセンス」「小難しい世界観」が相まって、「消費され続けるコンテンツ」になってしまった感があります。
そこに警鐘を鳴らしたい庵野監督は、「旧劇場版」でのシンジに視聴者を重ねての「アスカでの自慰行為」、さらにはラストを持って
「エヴァに固執するお前ら、気持ち悪い」的な強烈なアンチテーゼをぶち込んできたのではないでしょうか。まぁ、その旧劇が一番憶測を加熱させたとも言えますが。
その「エヴァ信者」(※ここでいうエヴァ信者とは、アジのように「世界観が好きで考察も大好き」みたいな痛いヤツを含みます。)に向けて
「結局はこんなに単純な理由でのケンカなんだ」「善と悪はこういうことだ」というのを示してくれた作品であると思います。
ゲンドウの自分語りや、カヲルとの関係の匂わせは、少し安くさい感じもしましたが、そこはきっと「深読みありき」のエヴァでないことを示しているのかもしれませんね。エヴァだって、伝えたいことはきっとストレートなはずですから。
エヴァからの「愛・救済」
ここからは猛烈なネタバレを含みます。
私が今作から受け取ったメッセージをいくつか挙げたいと思います。これらがあるからこそ、私は救われ、少し落ち込み、それでも生きいこうと思えています。
アスカからの、アスカへの告白
ここが一番キました。
アニメ版からの確執、協力、旧劇での衝撃のラスト、新劇での絡み。
全てを超えてきて、お互いに「好きだった」と言える。
でも、「過去形」。
20数年を超えた恋の終わりを見ました。結ばれてほしいけど、結ばれない。そして、アスカの今際の淵に思い出される大人になったケンスケ、「あんたより先に大人になった」というアスカの発言。色々考えるけど。彼らは20数年過ごしたわけじゃない。世界軸だって違うかもしれない。
主人公とヒロインは、結ばれるなんて約束は、絶対じゃないということ。でも、その時の「好きだった」という気持ちは、お互いに確認できたし、私たちも知ることができました。
レイが人間になっていく姿
レイは今作において、「農作業」を通して周囲の人間と人間関係を構築し、人間になってゆきます。人間に近づくにつれ、プラグスーツでは制御が困難になり、最終的にシンジの眼前でLCL化していなくなってしまいます。
その直前、「綾波もどき」「綾波のそっくりさん」と言われていたレイに対し、シンジは「綾波はやっぱり綾波だ」と名前を付けます。そして、その直後綾波はLCLになってしまうわけですので、ここで彼女の心は人間になったといってもいいでしょう。
ラストシーン:大人になったシンジ
ラストシーン。シンジは大人になっています。
駅のホーム、反対線には「カヲルとレイ(らしき姿)」、「アスカ」が見えます。シンジとは無関係なようです。
シンジは、エヴァの無い世界を望みました。
その結果、エヴァを通じて知り合った彼女らとは無関係な世界軸にいるのでしょうか。
そして、共に手をつなぎラストを迎えたマリは、シンジにとってどのような存在なのでしょうか。
含みを持たせつつも、シンジ・アスカ・レイ・マリを「エヴァ」という呪縛から解き放ったのは、作中の何者でもなく、作者本人の優しさだったのだと思います。
結局「シン・エヴァ」は何を伝えたいのか
ここでの考察は、私の他にもたくさんの人が同じ結論に至っています。
つまり、監督のメッセージは結構ストレートなんだな、ということです。
「エヴァンゲリオンの終わり。そして始まりの物語。」
今作で、「ゼーレの思惑」「碇ゲンドウの思惑」「結末」がすべて判明しました。ゲンドウに至っては、アニメ版から一貫して見せなかった「自己の弱み」をすべてさらけ出しました。
それにより、物語としての「エヴァンゲリオン」は終結しました。
また、シンジとアスカ・レイの恋模様も完結しました。
エヴァの世界観も、リセットされた様子が描かれました。
大人になったシンジは、マリとともに現実世界(実写)へと飛び出しました。
私たちが気にしていたことはすべて無へと還り、エヴァの無い世界線に変わりました。
それと同時に、
「20年以上私たちを縛り付けていたエヴァの呪縛も解けたよ。」
というのがメッセージだと私は考えます。
小学生だった私は30代中盤になり
100:0で綾波派だったのが、今では5:95くらいでアスカ派になり
初恋の人と見ていたエヴァを今では妻と二人の子どもと一緒に観ている
私たちがこんなことになっているのに、エヴァはずっとエヴァで縛り付けられていた、と感じました。
今作のエンディングに思うところがある方もいるかもしれませんが、人生とはそういうものであり、
「約束された結末などない」
ということが伝えたかったこと、庵野監督がエヴァを通して感じ、自身も成長し、私たちにフィードバックしているということなのではないでしょうか。
今作をもってエヴァンゲリオンシリーズは結末を迎えたということで、筆者自身かなりの虚無感を感じてはいますが、作品内でシンジ君たちが幸せに生きられる世界線が構築されたのならば、それは嬉しいことだと思います。
ありがとうエヴァンゲリオン。
さようならエヴァンゲリオン。
世界観、登場人物、全てが大好きでした。
またいつか会いましょう。